地元に恩返しがしたい。富山発のプロジェクト〈ATAWARI〉を立ち上げた音楽家・TAIHEIさん(Suchmos/賽)-1
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地元に恩返しがしたい。富山発のプロジェクト〈ATAWARI〉を立ち上げた音楽家・TAIHEIさん(Suchmos/賽)

記事公開日:2025.02.05

富山県から広い世界へ旅立っていく若者たちに、いつでもふるさとが待っている――そんなメッセージを伝える「I’m Your Home.」プロジェクト。富山県出身で、さまざまな分野の第一線で活躍する先輩たちが、一歩踏み出そうとする若者たちへエールを送るインタビューです。

富山県氷見市出身/音楽家
TAIHEIさんへ10の質問

  • Q1好きな寿司ネタは?

    サヨリと、ブリに成長しきる一歩手前のガンドブリ。コヅクラ(ブリの幼魚)も好きですけど、刺身にしておいしいのはコヅクラからフクラギへと成長した段階くらいからですよね。

  • Q2学生の頃の思い出は?

    いろいろな音楽を知るためにALT(外国語を母国語とする外国語指導助手)の先生たちにお願いして、母国で流行っている音楽や好きな音楽を空のCDに焼いてもらっていました。イギリスの音楽を教えてくれたニュージーランド出身の先生のプレイリストは、いまでも内容を覚えています。

  • Q3座右の銘(好きな言葉)は?

    「日日是好日」。

  • Q4一歩踏み出したときの気持ちは?

    両親とした『30歳になるまでに音楽で食えなかったら、富山でもう一度人生を一からしっかりやり直す』という約束をどうやったら守れるか、と現実的な気持ちでいっぱいでした。

  • Q5何歳で県外に出た?

    18歳。

  • Q6県外で学んだことをひと言で表現すると?

    年齢に関係なくリスペクトできる友だちがたくさんいることの大切さ。

  • Q7富山との現在の関わりは?

    地元の氷見市での活動でいうと、学校などで講演会をしています。また2024年には、防災行政無線のメロディ『日日(にちにち)』を作曲しました。

  • Q8HOMEに頼ったことやHOMEがあってよかったことを教えてください。

    生まれついて、いろいろな人とつながれる幸せがあること。

  • Q9挑戦したい若者へメッセージ(エール)をください。

    「自分は無知であり、ひとりでは何もできない」という根本を忘れずに、信頼している人からすすめてもらったものを素直に受け入れる心と、根拠のない自信。このふたつを持っていれば、友だちもできるし勢いで突破できることも多いはず。俺自身、そうやってきました。

  • Q10あなたのHOMEは?

    地球。「地球人」という意識でいます。

30歳までに音楽で食べていく。覚悟とともに始まった東京での日々

富山県氷見市出身のTAIHEIさん。洗練された音楽性で多くのファンの心を掴んでいるバンド〈Suchmos(サチモス)〉や、自身が中心となり結成したバンド〈賽(SAI)〉の鍵盤奏者だ。Suchmosの楽曲はテレビCMなどに起用されるなど、知らず知らずのうちに彼らの音楽を耳にしている人も多いかもしれない。

音楽教室の講師をしていた母親の影響で、2歳からエレクトーンを習っていたというTAIHEIさん。また、生まれ育った氷見市はハンドボールの強豪校が揃う“ハンドボールの聖地”で、父親がハンドボールの指導者ということもあり、TAIHEIさんも中学時代までは本気でハンドボールにも取り組んでいたそう。そんな彼が音楽の道を歩むことを決意したのは高校2年の夏だったという。

「どつかれる覚悟で、両親に音楽で食べていきたいと話したら、『とりあえず座れ』と言われて。どうしてそう思ったかを話したところ、『わかった。ただひとつだけ約束しろ。30歳になるまでに食えなかったら、富山に帰ってきてもう一度人生を一からしっかりやり直せ』と言われたんです。

当時は親戚も友だちも東京におらず、何の根拠もないのに『絶対に帰ってこないけどね』と強気で返事をしつつ、約束をしました」

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    〈Suchmos〉などで活躍するTAIHEIさん。

当時通っていた高校はかなりの進学校。音楽大学を目指す生徒はかなり珍しかったようだ。

「先生に音大を目指したいと言ったら、『高校としては音大に行くという道をサポートすることはできないけれど、それでも受験するならがんばれ』と言われました。

高校3年生になると、授業はあるものの、自分で勉強できるプランを組める時間が増えたので、音楽の授業や吹奏楽部の活動が入っていなければ、音楽室のピアノでずっと曲をつくっていました。いま思えば、このときが一番ひとりで音楽に向き合っていましたね」

決して音大受験に適しているとはいえない環境にもかかわらず、くじけなかったTAIHEIさん。

「ハンドボールをやっていたときに手に入れた、『一度やり始めたら徹底的に最後までやる』とか『みんなが辛くて省く練習を一番しっかりやったチームが強い』みたいな精神性と一緒でしたから。俺の場合は好奇心がきっかけになって何事もポンッとやり始められるので、『最後までやらないと負けだな』という気持ちだけでやっていました」

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    自宅併設のスタジオにて。

そして晴れて洗足学園音楽大学の音楽・音響デザインコースに現役合格し、18歳で県外に。しかし入学して早々、プロの音楽家になるためにはそれまで培った知識と技術だけでは足りないと実感させられたという。

「大学に入った瞬間『どうやら俺は本当に何も知らないんだ』ということを思い知りました。1年生の間はめちゃくちゃ真面目に音楽理論や機材の仕組みといった基礎を学んだほうがいいなと思ったので、フルで単位を取りました」

大学2年生からは作曲の仕事をすでに始めていたというTAIHEIさん。3年生へと進級すると、Suchmosを含むふたつのバンドにメンバーとして加入。さらに事務所に所属し、インディーズからデビューすることまで決定し、レコーディングと、ツアーや音楽フェスへの出演予定だけで1年のスケジュールが埋まってしまうほどの忙しさに。

若くしてプロの音楽家として活動のスタートを切ったTAIHEIさん。そこで気づいたのは人脈の大切さだった。

「早めに社会に出て、一番足りなかったのが、生きていくうえでの人脈だったんですよね。東京に親戚も友だちも、先輩も後輩もいないっていう状態だったので、自分で友だちを増やすしかないなと思って外に出まくりました。

ただ、友だちといっても年の差はあまり関係なく、一緒にいると『なんか高校が一緒だったような気がするな……』くらいの気持ちになれる人は友だち。60代の先輩ミュージシャンでめちゃくちゃ仲がよくてリスペクトしているすばらしい方もいれば、俺より10歳年下で大先生だと感じている若手のミュージシャンもいたりします」

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そんな友だちとの関係から学んだことも大きかったようだ。

「これまでいろいろな失敗をしてきましたが、その失敗のおかげで人としての筋を通すべきことや、大事なことをたくさん学んできました。そう考えると、年齢に関係なくリスペクトできる友だちがいっぱいいることが一番大事な気がします」

いまでは仲間たちと、富山の魅力を発信するプロジェクトも。若かりし頃は「富山へ帰る気はない」と県外に出たTAIHEIさんだったが、いったいどんな心境の変化があったのだろう?

県外に出たからこそできる、富山と東京のいいとこどり

東京で活動するなかで、地元である富山のことを思い出すことはあったかとTAIHEIさんに訊ねると、若い頃とは心境がまったく変わったことがうかがえた。

「18歳で富山を出るエネルギーになったのは『何もない、足りない!』みたいな感情だったのですが、いまは逆に『全部あるじゃん!』と感じているんですよね。ガラス文化が盛んなのもまったく知らなかったですし、やっぱりお酒を飲めるようになってから帰ると、富山は最強なんですよ。『うまい! 安い! マジで!?』って(笑)」

富山の良さを再発見するなかで同時に感じたのが、まちに活気がなくなっていることだったという。

「地元に帰ってくるたびに両親から学校の生徒数や人口が減っているという話も聞いていましたし、地元に帰った友だちからも『まちに全然元気がない』と聞いていたんです。それから地元である富山に対して、恩返しをしたいと感じるようになりました」

その“恩返し”のひとつが、富山でセカンドキャリアを始める移住者を増やすきっかけとなるための音楽フェスティバルの開催だ。

「富山でチームをつくり、東京で知り合ったトップミュージシャンのみなさんにお願いして来てもらい、お酒やガラスや陶器といった富山のお店を出店する、最大来客数3千人くらいの音楽フェスティバルをつくれないかと考えていたんです。

そんなことを考えていたコロナ禍の初期に、富山県内で会社と劇場の運営や、イベント企画をされているプロデューサーの田辺和寛さんとインターネット上で知り合ったんです。知り合った数日後に田辺さんに会いに行って、考えていたことを話したらおもしろがってくれて。それから一緒に音楽プロジェクト〈ATAWARI〉の活動を立ち上げたんです」

これまで2022年秋にTAIHEIさん率いる賽(SAI)と田島貴男さんによるライブイベントを、2024年春には七尾旅人さんをゲストに招いたチャリティーライブを開催してきたATAWARI。プロジェクトとしては、まだ旗が揚げられたばかりだが、TAIHEIさんとしては長期的に活動を続けていくことを見据えているようだ。

「もしATAWARIがうまくいったら『富山県でも成功したなら、うちの県でもできるのでは?』と、やり方を県外の方々が聞きに来ると思うんですよね。そうしたらノウハウは全部共有しようと思っています。まだ俺たちも、10年続けてどうなるかという話をしている段階ですが、富山から始める意味もそこに感じています」

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また、家族といるときも富山を再び盛り上げるためにはどうしたらいいかと、学校の校長である父親、音楽だけでなく食育の先生もしている母親、地方創生に関わるプロジェクトの仕事をしている妹とも自然に話をしているそうだ。

「40歳になるまでに、音楽でも食育に関することでもいいのですが、一度母と何かをやってみたいなとも考えています。いまはSuchmosだけでなく、自分のバンドのプロジェクトを軌道に乗せるのに時間を使っているのでなかなか難しいのですが、活動が安定してきたら実現させたいです」

地元・氷見市の防災行政無線のメロディ『日日(にちにち)』を作曲するなど、東京に拠点を置きながらも、地元のための活動も実現しているTAIHEIさん。そんな彼から、県外に出て挑戦したいという若者たちへぜひ伝えたいことがあるという。

「『自分は無知であり、ひとりでは何もできない』という根本を忘れずに、信頼している人からの言葉を素直に受け入れる精神と、根拠のない自信のふたつだけを持っていれば友だちも少しずつ増えていって、時には勢いで突破できることもあると思います。

あと、反抗期の高校生は全員一度、県外に出たほうがいいと思いますね。俺も高校のときは反抗期だったんですが、上京して3日目に自分で洗濯しないといけないことに気づいた瞬間、反抗期が終わりました。速攻で母親に電話して『いままですみませんでした』って謝りましたよ(笑)」

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そして、もうひとつ伝えてほしいとTAIHEIさんに言われていたのが、こんなメッセージだ。

「富山から県外に出て、音楽でも映像でも洋服でも、何かを表現して一旗揚げたいと考えている人で、俺と会って話してみたいという人がもしいたら、いつでもお酒を酌み交わしましょう」

Profile TAIHEI-1

Profile TAIHEI

富山県氷見市出身。洗足学園音楽大学 音楽・音響デザインコース卒業。ロックバンド〈Suchmos〉鍵盤奏者。クラシック音楽、ジャズ、R&B、ヒップホップなどの幅広い音楽に習熟し、ルーツミュージックに重きを置く。自身がリーダーを務めるバンド〈賽(SAI)〉の活動に加え、劇伴音楽制作やアーティストサポートなど、幅広く活動中。

Information I’m Your Home.

「I’m Your Home.」は、富山県から広い世界へ羽ばたく若者たちに、いつでも帰ってくることができるHomeとして旅立ちを応援するプロジェクトです。

credit text:林みき photo:ただ


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