
地域の祭りを復興の力に
「令和6年度伏木曳山車」総々代 脇田歩さん
小矢部川(おやべがわ)河口の西岸に位置する高岡市伏木(ふしき)地区は越中(えっちゅう)有数の港町として栄えました。万葉の歌人である大伴家持(おおとものやかもち)とゆかりがあり、国宝・勝興寺(しょうこうじ)が建立されるなど歴史に彩られたまちでもあります。
そんな伏木の町を熱く彩るのが、毎年5月に開催される「伏木曳山祭(ふしきひきやままつり)」です。2024年1月の能登半島地震によって大きな被害を受けた同地区で、祭りの開催に尽力した「令和6年度伏木曳山車」総々代の脇田歩(わきたあゆみ)さんにお話を聞きました。
歴史のまち伏木
伏木は古代より越中国の要所として栄えました。古代には、現在の県庁にあたる国府が設置されました。奈良時代に赴任した大伴家持もその1人です。家持は優れた歌人のひとりであり、のちには「万葉集」の編纂にも携わったとされています。
近世、特に江戸時代からは北前船(きたまえぶね)交易の寄港地となるなど、越中有数の港町としても栄えます。伏木曳山祭は、その港町の海上安全と海岸鎮護を願う伏木神社の春の例大祭として始まりました。
熱狂の「けんか山」
伏木曳山祭では、昼と夜で異なる顔を見せる豪華な山車(やま)の巡行が魅力のひとつです。昼間には「花山車(はなやま)」が町を練り歩き、精緻な彫刻や華やかな飾りが施された山車が、町の中を曳き(ひき)回ります。各町の人たちによって手作りされた花模様や装飾は見どころの1つです。
夜になると、山車は「提灯山車(ちょうちんやま)」としてライトアップされ、幻想的な雰囲気を漂わせながら町を進みます。約360個の提灯が山車全体を光り輝かせ、夜の町を華やかに彩ります。
祭りのクライマックスは、「かっちゃ」と呼ばれる山車同士のぶつかり合いです。町内同士が力を尽くし、山車を力強くぶつけ合うその迫力は圧巻です。掛け声や山鹿流陣太鼓(やまがりゅうじんだいこ)が響き渡り、観客もその熱気に引き込まれます。この激しいぶつかり合いは伏木曳山祭の醍醐味で、その激しさから伏木曳山祭は「けんか山」の愛称でも親しまれており、毎年10万人近い観光客がこの小さな町に訪れます。脇田さんによると「伏木生まれの子は誰もがかっちゃの舞台にあこがれる」と、地域の誇りだと教えてくれました。
山町と総々代
伏木曳山祭では、7台の山車があり、山町(やまちょう)と呼ばれる7つの町がそれぞれ管理運営しています。山町ごとに花山車が祀っている福神が異なったり、それぞれの山車に特徴的な装飾が施されています。装飾だけでなく、管理や補修なども、町の人たちが1年かけて行うそうです。
けんか山はお祭りの運営自体も町人が主体となって行っています。その中で脇田さんは、令和6年度の「総々代(そうそうだい)」を務めました。総々代は各山町の代表者と祭りの全体的な進行や山車の巡行の調整を行う責任者です。これまでも祭りの実行委員会や各役職を務めた脇田さんですが、祭りの代表者の1人として重大な任務を担うことになりました。
伏木を襲った地震
脇田さんが総々代となった2024年1月1日。能登半島地震により伏木地区は大きな被害を受けました。住宅や商業施設の半壊、一部損壊が相次いだほか、液状化現象による地盤沈下や地割れは道路にも影響を及ぼしました。その影響は祭りの開催が危ぶまれるほど深刻でした。
脇田さんは総々代として関係者と開催可否を協議しました。「いろんな意見がありましたが、私としては何かしらの形で開催したかった。1年かけて祭りの準備を進めた山町の若者たちに祭りをさせてあげたかったし、なによりけんか山が行われることで伏木の人たちが元気になるきっかけを作り、少しでも復興につながればという思いでした」と当時を振り返ります。伝統文化と技術を継承し、そして復興を祈願するために、脇田さんは開催に向けて奔走しました。
震災を乗り越える
脇田さんらの調整もあり、祭りは規模を縮小して開催することが決まりました。しかしルートの変更やかっちゃ会場の選定など、課題は山積みでした。「まずは巡行ルートの設定と短縮のために各山町との調整を行いました。また例年使っているかっちゃ会場が液状化現象で使えなかったため、この祭りの山場でもあるかっちゃの会場選定には苦労しました」と話します。
また、今回は無観客での開催としたのも苦渋の決断でした。「けんか山はお客さんがいてこその熱気があると思います。ただし会場が狭かったことや例年の駐車場が地震被害で使えず、代替の駐車場が確保できなかったこともあり無観客での開催としました。みなさんに見てもらえない寂しさと申し訳なさはありました」と話します。
祭りへの恩返し
いずれは改めて多くの人に祭りを楽しんでほしいと脇田さん。「この祭りは地域の人をつなぐ大切な行事ですが、同時に外の人に伏木という町を知ってもらう貴重なチャンスでもあります。多くの人にこの熱気を体感してもらいたいです」と話します。
脇田さんは令和6年度のけんか山をもって総々代を次の山町に引き継ぎましたが、今後も山町の人間として祭りに関わっていきます。「令和6年はこれだけの状況の中で、ここまで祭りを開催させてもらえた。これからも恩返しのつもりで、祭りに関わっていきたい」と未来に目を向けます。